本書の見取り図 ―教育 AI 研究をどう眺めるか

ここでは、本書がどんな領域を扱い、その中でどんな視点を取るのかを、最初にまとめておきます。あとで何度も立ち返る場所になるので、まずは一度ざっと眺めて、必要に応じて戻ってきてもらえれば大丈夫です。

本書が扱う領域

本書が地図を描こうとしている領域は、ひとことで言えば 教育 AI 研究 です。もう少し具体的に書くと、次の分野を横断する広い領野になります。

これらの分野は互いに重なり合っていて、研究室によって重心の置き方も呼び方もさまざまです。同じ問題意識を ITS と呼ぶ人も、AIED と呼ぶ人も、学習工学 (Learning Engineering)HCAI と呼ぶ人もいます。本書では、これらの分野をひとつの地図として並べて読み解くために、「認知学習工学 (Formalized Cognitive Learning, FCL)」 という呼び名を僕がこの本で立てます。これは既存の確立された分野名ではなく、本書の中だけで通用する作業ラベル ―「この本で僕が打ち出している見取り図」 ― だと考えてください。あなた自身の研究の足場としてそのまま採用するか、別の呼び名に置き換えて読むかは自由です。大事なのは、地図そのものとあなたの関心との対応関係であって、呼び名そのものではありません。

本書を貫く三つのテーマ

本書では、上の領野を眺めるときに、繰り返し戻ってくる三つのテーマを置いています。これは「覚えるべき教義」ではなく、章を読み進めながら何度も顔を出す 問いのまとまり だと考えてください。

  1. 形式化 (Formalization) ―認知プロセスや知識を、計算機にも人間にも読める形でどう書き下すか。
  2. 中間表現 (Intermediate Representation) ―異なるシステム・研究室・実践者のあいだで、知見をどう持ち運べる形にするか。
  3. エコシステム (Ecosystem) ―研究と実践、理論とデータが循環する仕組みを、どう作っていくか。

これら三つは、僕自身が論文 [Koike2026] で提案している中間表現アプローチの背骨でもあり、また広い意味で ITS / AIED / Learning Engineering の研究者がそれぞれの言葉で繰り返し議論してきた論点でもあります。

graph LR
    A[本書を貫く<br/>三つのテーマ] --> B[形式化<br/>Formalization]
    A --> C[中間表現<br/>Intermediate Representation]
    A --> D[エコシステム<br/>Ecosystem]

    B --> B1[認知プロセスを<br/>計算可能に表現]
    B --> B2[人間に理解可能な<br/>形式で記述]
    B --> B3[ドメイン知識の<br/>構造化]

    C --> C1[システム間で<br/>共有可能]
    C --> C2[計算可能性]
    C --> C3[解釈可能性]

    D --> D1[研究コミュニティ]
    D --> D2[開発者]
    D --> D3[教育実践者]
    D --> D4[学習者]

    style A fill:#f9f,stroke:#333,stroke-width:4px
    style B fill:#bbf,stroke:#333,stroke-width:2px
    style C fill:#bfb,stroke:#333,stroke-width:2px
    style D fill:#fbb,stroke:#333,stroke-width:2px

図: 本書が繰り返し戻ってくる三つのテーマ

なぜ新しく「認知学習工学 (FCL)」という呼び名を立てるのか

そもそも、ITS / AIED / Learning Engineering / 学習工学 / 教育工学といった既存の呼び名がいくつもあるなかで、なぜ僕は 新しい呼び名 をわざわざ立てているのでしょうか。これは正直に書いておきたいところです。

理由は、既存の呼び名のどれもが、本書がカバーしたい範囲を 過不足なく 切り取ってくれないからです。隣接する呼び名を並べてみると、こんな感じになります。

  • ITS (Intelligent Tutoring Systems) は、学習支援 システム に焦点を絞り過ぎています。認知科学的な土台や、システム外で起こるエコシステム的な議論は射程の外に出がちです。
  • AIED (AI in Education) は逆に広すぎます。教育に AI を使う話のすべて――採点、出題、推薦、要約、自由対話――が含まれてしまい、「認知の形式化」という核心がぼやけます。
  • Learning Analytics / Educational Data Mining は、データから学習を読み解く方向に重心があります。認知モデルとつながらないまま予測精度だけ上げる研究が増えやすく、「なぜそう予測されるのか」という説明可能性の議論が後景に退きます。
  • Learning Engineering は近いのですが、学習科学の知見を実践に翻訳することを主軸にしているため、認知の 形式化そのもの を中心に据える書きぶりにはなりにくい。
  • 教育工学・学習工学 はどちらも長い歴史を持つ確立した分野ですが、本書が強調したい「認知の計算論的な形式化と中間表現の共有」という視点は、それらの中心テーマというより周辺の関心になっています。

そこで本書では、これらの分野を横断する地図の 重心 を、はっきりと言葉で固定するために、新しい作業ラベルを立てています。重心はこういうことです――人間の認知を計算論的に形式化し、その形式化された表現を媒介として、システム・研究者・現場のあいだで知見を共有・累積していく。この重心を一語で呼びたいので、僕はそれを Formalized Cognitive Learning (FCL)――日本語で 認知学習工学 と呼ぶことにしました。

もう一度強調しておくと、これは本書のなかで僕が立てた呼び名であって、すでに教科書に載っているような既存分野ではありません。既存分野の研究者・学生に対して「あなたがやっているのは実は FCL です」と言うつもりも一切ありません。本書を読み終えたあと、あなたがこの呼び名を持ち帰っても、無視して自分の元々の呼び名を使い続けても、まったく構わないのです。

本書での定義 (working definition)

その上で、本書のなかで 認知学習工学 (FCL) と書いたとき何を指しているのかを、なるべく短く、ただし他の呼び名とは違いがわかる粒度で、定義しておきます。

英語版:

Formalized Cognitive Learning (FCL) — a working label introduced in this book. An interdisciplinary engineering perspective on education-AI research whose center of gravity is the computational formalization of human cognitive processes and their objects, and the design of intermediate representations through which researchers, developers, educators, and learners can share, criticize, and reuse what has been formalized. FCL is closely related to Intelligent Tutoring Systems (ITS), AI in Education (AIED), Learning Analytics (LA), Educational Data Mining (EDM), and Learning Engineering, but differs from each of them in choosing this combination of cognitive formalization and shareable intermediate representation as its primary commitment.

日本語版:

認知学習工学 (Formalized Cognitive Learning, FCL) ―本書のなかで著者が立てる作業ラベル。 教育 AI 研究をひとまとまりに眺めるための学際的・工学的視点であり、その重心を (1) 人間の認知プロセスとその対象の計算論的な形式化(2) その形式化を、研究者・開発者・教育実践者・学習者のあいだで共有・批評・再利用できるようにする中間表現の設計 に置く。ITS / AIED / LA / EDM / Learning Engineering といった既存の呼び名と多くを共有するが、「認知の形式化」と「共有可能な中間表現」をいわば二本足にしてバランスを取る、というコミットメントの仕方において区別される。

この定義は、本書を貫く三つのテーマ(形式化/中間表現/エコシステム)と、互いに支え合うようにできています。形式化 (1) と中間表現 (2) を二本足として、その上にエコシステムが立ち上がる、という入れ子構造だと思ってもらえれば、章を読み進めるときの足がかりになるはずです。

なお、この定義のもとになった発想は、僕自身が論文 [Koike2026] で展開している中間表現アプローチに直接つながっています。本書はその発想を一冊の規模で広げ、教育 AI 研究全体を眺める地図に展開したものだと考えてください。

この視点を採るとき、自然と次のような問いが立ち上がります。

  • いま自分が扱っている認知プロセスや知識を、どこまで明示的に書き下せるか
  • その記述を、別のシステムや別の研究者が再利用できるか
  • 形式化 → システム → データ → 理論精緻化、という循環を、どこかで回せているか

これらは正解のある問いではありませんが、章を読みながら自分のテーマに引き寄せて考えてもらうと、本書の地図がぐっと立体的になります。

関連分野との位置関係

教育 AI のなかで頻繁に名前が出る分野について、本書での扱い方を簡単に整理しておきます。違いを意識しながら読むと、自分の関心領域が地図のどこに乗るのかが見えてきます。

  • ITS (Intelligent Tutoring Systems):適応的学習支援システムを扱う代表的な研究領域です [Woolf2009]; [Nkambou2010]。本書は ITS の理論的・方法論的基盤の整理に多くの紙幅を割いています。
  • AIED (AI in Education):教育への AI 応用全般を扱う分野です [Roll2016]; [Holmes2019]。本書では、認知の形式化を通じて説明可能な AI 応用を扱う立場を取ります。
  • LA (Learning Analytics):学習データの分析を通じて学習を理解・最適化する分野です [Siemens2013]; [Lang2017]。本書では、認知モデルと結びついたデータ分析の方向に重心があります。
  • EDM (Educational Data Mining):教育データから有用なパターンを発見する分野です [Romero2010]; [Baker2014]。本書では、データ駆動と理論駆動のハイブリッドという立場で位置づけます。
  • Learning Engineering:学習科学の知見を実践に適用する工学的分野です。本書は、その中でとくに 認知の形式化中間表現 に焦点を当てる視点を提示します。
  • 教育・学習支援システム研究 (日本語圏での包括ラベル):日本では、ITS よりは広く、教育工学全体よりは狭い射程を、教育システム情報学 と並べて 「教育・学習支援システム研究」 と呼び慣らすことが多くあります。本書がカバーしている話題のかなりの部分は、この呼び名で集まる研究コミュニティとそのまま重なっています。研究室サイトからこの本に来てくれたあなたが日本語圏の学生なら、本書を「教育・学習支援システム研究の入り口を、認知の形式化という切り口から眺めた地図」と読み替えてもらってもまったく構いません。実際、僕が運営に関わっている 「教育・学習支援システム若手の会」 も、この呼び名のもとに集まる若手研究者の場として動いています (詳しくは第 18 章で触れます)。

これらは「どれが正しい」というものではなく、それぞれの呼び名にそれぞれの研究コミュニティと歴史があります。本書は、それらを一望するための地図を、認知学習工学という作業ラベルのもとに描こうとしているのだと思ってください。

本書での「地図」の使い方

最後に、本書の中で「地図」をどんな道具として使うのか、立ち位置を一言で押さえておきましょう。

本書は、教育 AI 研究という学際的な領野を 見渡すための地図 を提示します。固定された方法論やドクトリンではなく、自分の研究や関心を 位置づけ直すための座標系 だと思ってもらえると、ちょうど良い距離感だと思います。

たとえば、

  • モデル駆動の ITS を研究するラボは、形式化と中間表現の軸に重心を置いた位置に立つでしょう。
  • データ駆動の LA / EDM を研究するラボは、エコシステムとデータ分析の軸寄りの位置に立つかもしれません。
  • HCAI (人間中心 AI) や HCI に近いラボは、適応的学習環境の使われ方や、人とシステムのインタラクションの設計に重心を置くでしょう。
  • 認知科学・教育心理 の背景が強いラボは、形式化される対象 (認知プロセスや学習) そのものの解像度を上げる方向に貢献します。

どの位置も「中の正解」ではなく、それぞれが地図上の 別々の良い場所 です。本書の役割は、その地図の輪郭を提示することで、あなたが自分のラボや関心の置き場所を意識的に選べるようにすることだと思っています。

姉妹編との関係

本書と対をなす姉妹編「古池謙人流『研究の進め方』」は、研究の HOW ――どう問いを立て、どう論文を書き、どうメンターと付き合い、どう査読を経験するか――を扱います。本書はその対として、教育 AI / 認知学習工学という分野の WHAT ――何を研究するか、どんな素材・方法・歴史があるか――を扱う本です。

研究室の学生さんには、二冊をペアで読むことを勧めています。姉妹編は研究室サイト https://koike-lab.org/ からアクセスできます。

各章を読み進めながら、ぜひ「この議論は自分の研究のどこに効くだろうか」「自分はこの軸からは離れた位置にいるけれど、それは何を意味するだろうか」と問い直してみてください。本書は、そうしたあなた自身の問い直しの足場として使われたときに、いちばん役に立つはずです。