本書の見取り図 ―認知的教育AIをどう眺めるか―

ここでは、本書が何を地図にし、その地図をどの向きから描くのかを先にまとめます。あとの章で何度も戻ってくる場所なので、まずは一度ざっと眺めて、必要に応じて戻ってきてください。

本書が扱う領域

本書が地図にするのは、人の学びを計算機で支えようとする研究の全体です。タイトルにある 認知的教育AI という語で、以後はこの領域を指します。具体的には、次の分野が重なり合った領域です。

これらの分野は問題意識を共有しながら、研究室ごとに呼び名が異なります。同じ対象を ITS と呼ぶ人も、AIED と呼ぶ人も、Learning Engineering や HCAI と呼ぶ人もいます。どれかが正しいわけではなく、重心の置き方が違うだけです。本書はそのどれかに加わるのではなく、全部を同じ平面に並べて眺めます。

学びが積み上がるかどうか

地図を描く向きは、ひとつの問いで決まります。学んだことは、次に効くのか。

学習者についてなら、これは転移と呼ばれてきた現象です。ある問題を解いて得た考え方が、次の別の問題でも働くなら、学びは時間とともに積み上がります。働かないなら、学びは一回ごとに使い捨てられます。著者の研究室では、これを「問題解決の複利」と呼んでいます。

同じ問いは、研究そのものにも向けられます。ある研究室がシステムを作り、効果を測り、論文にする。次の研究室は、また一から別のシステムを作る。このとき、前のシステムで分かったことは、次のシステムに効いているでしょうか。効いていなければ、分野の学びも使い捨てです。個々の研究がどれだけ優れていても、全体としては単利にとどまり、同じ地点を回り続けることになります。

本書の主題は、この二つ目の複利をどう成立させるかにあります。そして本書は、それを成立させるものについて、ひとつの答えを置きます。共有できる中間表現 です。

形式化、中間表現、エコシステム

答えの中身は三つに分かれます。これは覚えるべき教義ではなく、章を読み進めるあいだに繰り返し顔を出す問いのまとまりです。

ひとつめは 形式化 です。学習者の頭の中で起きていることは、そのままでは持ち運べません。「この生徒は繰り下がりでつまずいている」という教師の実感は、その教師の中にあるうちは教室の外に出ていけません。これを、前提となる概念、誤りのパターン、必要な知識の構造として明示的に書き下す作業が形式化です。書き下してみると、自分が何を理解できていて何を理解できていなかったかが分かります。動くシステムとして組めば、その検証はさらに厳しくなります。理論が正しければシステムは動き、動かなければ理論のどこかが足りていません。構成することによって理解する、という方法論がここにあります。

ふたつめは 中間表現 です。形式化しただけでは足りません。書き下した記述が自分のシステムの中でしか意味を持たないなら、別の研究室はそれを使えず、また一から書くことになります。計算機が処理でき、人間が読んで意味を取れて、別のシステムに移しても壊れない。この三つを同時に満たす記述を、本書では中間表現と呼びます。研究の複利を成立させる機構は、ここにあります。

みっつめは エコシステム です。中間表現が共有されると、あるシステムで集めたデータが別の研究室の理論を検証し、そこで精緻になった理論がまた別のシステムに組み込まれる循環が生まれます。この循環が回っている状態を、本書ではエコシステムと呼びます。

graph LR
    A[形式化<br/>認知を書き下す] --> B[中間表現<br/>持ち運べる形にする]
    B --> C[エコシステム<br/>知見が積み上がる]
    C -.->|理論の精緻化| A

    style A fill:#bbf,stroke:#333,stroke-width:2px
    style B fill:#bfb,stroke:#333,stroke-width:3px
    style C fill:#fbb,stroke:#333,stroke-width:2px

図: 形式化が素材を作り、中間表現がそれを持ち運べる形にし、その結果として知見が積み上がる

この三つは並列ではありません。形式化が素材を作り、中間表現がそれを持ち運べる形にし、その結果としてエコシステムが回る、という順序を持ちます。真ん中が欠けると、どれだけ丁寧に形式化しても、その成果はひとつのシステムの中で完結します。

もうひとつ、全体に通底する態度があります。失敗を情報として読む ことです。学習者の誤答は避けるべきものではなく、どこまで理解できていてどこから理解が途切れるのかを示す手がかりです。第 5 章のエラー分析、第 8 章のバグモデル、第 16 章の Error-based Simulation は、いずれもこの態度の具体化です。形式化しようとして失敗する経験にも同じことが言えます。書き下せなかった箇所が、その理論のどこが未規定かを教えてくれます。

本書が取る立場

以上をまとめると、本書が取る立場は次の一文になります。

認知的教育AIの知見が分野として積み上がるかどうかは、認知の記述を各システムの内側に閉じ込めず、共有できる中間表現として設計できるかにかかっている。

本書ではこの立場を 中間表現アプローチ と呼びます。ITS / AIED / LA / EDM / Learning Engineering といった既存の呼び名と対立するものではありません。どの分野に身を置いていても取れる立場であり、実際、これらの分野の研究者がそれぞれのやり方で取り組んできたことでもあります。本書はその取り組みを一つの軸として並べ直し、何がまだできていないかを見えるようにします。

この立場を取ると、自分の研究に対していくつかの問いが立ちます。いま扱っている認知プロセスを、どこまで明示的に書き下せるか。その記述を、別のシステムや別の研究者が再利用できるか。形式化からシステム、データ、理論の精緻化へという循環を、どこかで一周でも回せているか。いずれも正解のある問いではありませんが、章を読みながら自分のテーマに引き寄せて考えると、地図が立体的になります。

地図の使い方

本書は方法論でもドクトリンでもなく、自分の研究や関心を置き直すための座標系です。モデル駆動の ITS を研究しているなら形式化と中間表現の軸の近くに、データ駆動の LA / EDM を扱っているならエコシステムの軸の近くに、現在地があるはずです。HCAI / HCI 寄りなら適応的学習環境のインタラクション設計に、認知科学や教育心理学の背景が強いなら、形式化される対象そのものの解像度を上げる方向に、それぞれ強みがあります。どの位置も地図の上の別々の良い場所で、優劣はありません。隣接分野との具体的な位置関係は 第 15 章 で改めて扱います。

各章を読みながら、この議論は自分の研究のどこに効くのか、自分はこの軸から離れた位置にいるがそれは何を意味するのか、と問い直してみてください。本書は、そうやって使われたときにいちばん役に立ちます。